第五課 木の葉の魚アイは、貧しい漁師の娘でした その漁師の家の貧乏さかげんといったら、財産は何一つなく、借り物の小舟が一艘に、借り物の網が、たった一枚あるだけでしたそれなのに、子供ばかりは十人もいて、おまけに、その子供たちを養う父親は、病気ばかりしているといった具合でした さて、その家の一番上の娘のアイが年頃になって、いよいよどこかにお嫁にやらなければならなくなった時、母親は自分の娘をつくづくと眺めて考えました こんなに色が黒くて、学校にもろくに行かなかった娘を、もらってくれる人がいるだろうか…… それでも、自分の娘は、なんとか幸せになってほしいと願うのが親心というもので、アイの母親は、村の人に会うたびにこんなふうに頼んだものでした 「うちのアイに、お婿さんを探しておくれご覧のとおりの貧乏人で、仕度はなんにもしてやれないが、嫁入りの時には、とっときの道具を一つ持たせてやるつもりだから」 村の人達はふんふんと頷きましたが、アイの家の山ほどの借金の事を思い出して、誰一人本気でアイのお婿さんを探そうとはしませんでした ところが、このアイを大喜びでもらおうという人が出てきましたそれは、遠い山の村から時々野菜を売りにやってくる婆さんで、山番をしている自分の息子の嫁に、ぜひアイをほしいと言い出したのです。
その婆さんの話はこうでした 「貧乏はお互い様だアイちゃんみたいに働き者の娘をうちの嫁さんにもらえたら、どんなに助かるかしれない仕度はなんにもいらないから、体一つで来ておくれ」 これを聞いてアイの母親は大喜びしました願ったりかなったりの話だと思ったのです こうして、それからいくらも経たないうちにアイは、山からやって来た行商の婆さんに連れられて、まだ見たこともない人のところへ嫁入りすることになったのです いよいよアイが村を離れる前の晩に、母親は古い鍋を一つ出して来てこう言いました 「いいかい、アイ、これがお前のたった一つの嫁入り道具だよ汚い鍋だけれど、これ一つがお前を幸せにするからね」 アイは、ぽかんと母親を見詰めました母親はそのアイの耳に口を寄せて、鍋の蓋をそっと開けました 「これから母さんの言う事をようく覚えておくんだよこれは不思議な鍋でね、この中に山の木の葉を二、三枚入れて蓋をして、ちょっと揺すって又蓋を開けると、木の葉はすばらしい焼き魚になるんだよそこに柚子でも絞って食べてごらんそりゃもう、とびきりの御馳走だから」 アイは目を丸くして、そんな不思議な品物が、一体どうして自分の家に合ったんだろうかと考えました。
すると母親はアイを両手で抱き寄せてささやきました 「この鍋には母さんの祈りがこもっているんだよお前が幸せになるように、母さんは百日、海の神様にお願いして、この鍋をもらったんだからだけどね、このことをようく覚えておおきあんまりやたらにこの鍋を使ってはいけないよなぜって、この鍋には入れられた木の葉が焼き魚に変わる時に、海ではちょうど同じ数の魚がお前のために死んでくれるんだからねその事を考えて、この鍋は嫁入りをした最初の晩と、それから本当に大事な時にだけ、使うんだよ」 アイは頷きました母親は鍋をていねいに風呂敷に包んで、アイに手渡しました こうして、鍋を一つ抱えただけの海の娘は、お姑さんの後について旅立ったのです 長い道程でした 二人はバスに三時間も揺られたあと、石ころだらけの山道を何時間も歩きましたおろしたての草履が磨り減って、鼻緒が切れるくらい歩き続けた時、やっとがけの下の小さいな家に着きました それは緑の木漏れ日に包まれた草屋根の家でした家の前には高い朴の木と小さな葱の畑がありました 「ここだここだここが、わしらの家だ」とお姑さんが言いましたアイは目をぱちぱちさせて、「いい家ですねえ、立派な屋根ですねえ」といいました。
アイが今まで住んでいた海の家はトタン葺きで、屋根には石がたくさんのせてあったのですそれに比べると、この草屋根はなんとどっしりとぶ厚くて、温かい感じがするんだろうかとアイは思いました すると、その家の戸ががらっと開いて、これはまた、どっしりとしてあったかい感じのする若者が顔を出しました若者はアイを見ると、それはいい感じに笑ったものですから、アイは一目でこの人が好きになりました その夜、アイは母親からもらった鍋を使って、とびきりおいしい魚の料理をこしらえました 鍋の中に、朴の葉を三枚並べて蓋をしてちょっと揺すって、又蓋を開けると―― どうでしょう鍋の中にはカレイが三匹、ちょうどいい具合にこんがりと焼けていたのです アイは、焼きたての魚に塩を振り掛けてお皿にのせて食卓に運びました料理の上手なお嫁さんが来たことを、アイの夫はただもう喜びましたけれども、お姑さんは箸を動かしながら首を傾けました (はて、これはどうしたわけだろう魚はどこで手に入れたんだろうたしかに、この娘は鍋一つしか持って来なかったのに……) けれども、お嫁さんはそれっきり、鍋を高い戸棚にしまいこんで使おうとしませんでした。
静かで平和な日々が過ぎて行きました山ではふくろうが鳴き、鳩が鳴き、きつねが鳴きましたそんな動物たちの声をアイは聞き分けることができるようになりました朝は早く起きて水を汲み、昼は畑を耕し、夜は機織をして、毎日せっせと働いて、春が過ぎて行きましたところが、その年の夏は雨が多く肌寒く、めったに晴れる日はありませんでしたそのために秋になっても山の木の実は実らず、丹精した畑の作物も腐ってゆきました おそろしい飢饉がやって来たのです 長いあいだアイの一家は、乏しい食べ物で食いつないできましたが、とうとう細い薩摩芋が一本しか残らなくなった時に、お姑さんは青い顔をしてアイに言いました 「いつかの魚の料理を作ってもらえないかねえもう食べ物は何にもなくなってしまった」 その目は、あの鍋の秘密をちゃんと見抜いているように思われましたアイは頷きましたこんな時には海の神様も許してくれると思ったのですアイは家の外へ出て行くと、木の葉を三枚とって来て鍋に並べましたそれから蓋をしてちょっと揺すって、また蓋を開けると鍋の中には、すずきが三匹じゅうじゅうと焼けていましたそれを三枚のお皿にとりわけながら、アイは真っ青な秋の海を思い浮かべました。
アイは自分達のために命を捨ててくれた三匹の魚にそっと手を合わせました 雑木林の向こうに住んでいる隣の家の人々がやって来たのは、それからしばらくあとのことでした 今ごろ、魚の焼けるにおいがするので、ちょっと寄ってみましたこの飢饉に一体どこで魚を手の入れたのか、それを聞こうと思って―― おどおどとへつらうように隣の人は言いましたこれを聞いてお姑さんは、アイに魚を焼くように言いましたそこでアイは、又木の葉をお客の数だけ鍋に入れました 「さあさあ、遠慮なく食べていってください」とお姑さんは言いましたお客は大喜びで魚を食べて帰ったのです ところが、困ったことになりました あの家に行けば、魚がただで食べられるという噂が、村から村へと広まり、遠い道を歩いて飢えた人達が、アイの家をたずねてくるようになったのですアイは、朝から晩まで台所に閉じこもって、木の葉を鍋に入れては魚の料理を拵えましたああ、これで何十匹、海の魚が死んだろうか……そんなふうに思いながら、それでもアイは手を休めることができませんでした魚を食べたい人達は、それでもアイは手を休めることができませんでした魚を食べたい人達は、あとからあとからやって来ましたから。
ある日、とうとうお姑さんが言いました 「こんなときにただで魚を振舞うこともあるまいうちも貧乏なんだから、魚一匹につき、米一合でも、大根一本でも、いくらかのお金でも、もらったらいいと思うが……」 これを聞いてアイはすぐこう答えました 「あの鍋はやたらに使ってはいけないと、里の母さんに言われましたただで魚を上げるのならまだしも、お金や物と交換するのでは、海の神様にすみません鍋に入れた木の葉の数だけ海では魚が死ぬのだと聞いています」 すると、お姑さんは笑いました 「山の木の葉と海の魚はおんなじことさ山の木の葉が取っても取ってもなくならないように、海の魚だって、なくなりゃしない」 横からアイの夫も口を合わせました 「そうとも海の魚は山の木の葉とおんなじだ」 仕方なく、アイは又台所に入って行って、魚の料理を拵え続けたのですああ、せつないせつないと思いながら、何百枚何千枚の木の葉を鍋に入れ続けたのです 林の中の小さな家は、やがて魚のにおいでいっぱいになりましたそれにつれて、家の中は米や豆や野菜や果物でいっぱいになりました魚を食べたいばかりに、人々はとっときの食べ物を持ってやってきたのでしたから。
そのうちに、アイの夫は山番の仕事をやめましたお姑さんも畑仕事や縫い物をやめましたアイの夫は、時々もらいものの野菜や豆をかごに入れて麓の村に売りに行きましたそうして、いくらかのお金を作っては戻って来たのでしたが、ある日のこと、アイに一枚の美しい着物を買ってきたのです それは白地に、椿の花がほとほとと散っている着物でしたその花びらの、ぽってりとした赤がアイの心をくすぐりましたま新しい着物を手にしたのは生まれてはじめてのことでしたからアイは涙が出るほどうれしいと思いました突き上げてくる喜びの渦の中で、アイは海の神様への後ろめたさも里の母親の注意もさらりと忘れました新しい着物を抱き締めて、この鍋がお前を幸せにすると言った母の言葉はこういうことだったかと自分なりに解釈したのです それからというもの、アイは喜んで魚を焼くようになりました アイの家に魚を食べに来る人々の群れが細い山道にひしめきましたアイの家はどんどん豊かになり、アイは美しい着物を何枚も持ってるようになりました そうして、それから、どれほどの月日が過ぎたでしょうか 激しい雨が丸々なのか降り続いたある明け方のこと―― 三人はドドーッという不気味な音を聞きました。
それから、家がぐらりと大きく揺れるのを感じました 「山崩れだ!」 アイの夫が叫びました 「後ろの崖が崩れてくる!」 とお姑さんも叫びましたたちまちのうちに、天井がメリメリと鳴り、柱が揺れましたああ、家が潰れる……もう逃げることもできずにアイの夫が畳の上に蹲った時、いきなりアイが言ったのです 「いいや、違う……」と それからアイは天井を見上げて、 「あれは海の波の音だ」とつぶやきました 「波の音?波の音がどうしてこんなところまで聞こえるものか」 「そうともお前の空耳だ」 けれどもこの時、アイは懐かしさに躍り上がり、髪を振り乱して戸口に駆けていたのですそうして、カタリと戸を開けると―― どうでしょう 山の木もれ陽とそっくりの色をした海の水が、ゆらゆらと家の中にあふれこんで来るではありませんか 「ほうら!」とアイは叫びましたそれから、上を見上げて何もかもを知ったのです なんとアイの家は、海の底に沈んでいたのです 一体、どういうわけでそんなことになったのか分かりません大津波でも起きて、遠い海が山まで押し寄せてきたのか、それとも海の神様の大きな手が、この小さな家をつまみ上げて海の底に沈めてしまったのか…… それにしても、海の底に沈められても、三人は苦しくも寒くもなく、ただ、堅田が。