精选优质文档-----倾情为你奉上第一章 日本の始まり1.原始の日本1.1縄文時代と縄文文化縄文時代総論:日本列島で土器が出現した約1万2000年前から、水田稲作農耕が始まる約2300年前までの、採集経済のもとで定住生活をおくった時代を「縄文時代」、その名前は、土器につけられた縄目模様から来て、その時代の文化を「縄文文化」と呼んでいます縄文文化は、完新世(後氷期・現世)の温暖湿潤な自然環境に適応し、大陸から離れた日本列島内で1万年以上も持続した食料採集文化です1.2日本人の起源本土日本人は、縄文人という日本の先住民の子孫だと言われる第2章 古代国家と古代文化の形成1.小国の分立1.1弥生時代と弥生文化弥生時代とは日本の歴史の中で、紀元前3世紀から紀元後3世紀までの約600年の時代のことを言う日本各地に有力な支配者が出現し、小国が営まれるようになった弥生という名称は、1884年に東京都文京区弥生町の遺跡で発見された土器が弥生式土器と呼ばれたことに由来する弥生文化は中国に現れた秦、漢という統一王朝の強い影響をうけている特徴は、金属器の使用と水稲耕作 1.2弥生時代の中国との国交弥生時代、当時の中国大陸には 漢(かん)、そして魏(ぎ)という国がありました。
漢や魏の国では当時の日本列島のことを書き記し、本としましたその本が漢書地理誌、後漢書東夷伝、そして魏志倭人伝ですそれぞれの文献を見ると、当時の日本列島の人々は倭人(わじん)と呼ばれ、また国は倭国(わこく)と呼ばれていました倭国の王様は中国大陸の漢や魏の国に使いを送り、漢の国の王様に倭国は漢や魏の国の同盟国であることを認めてもらおうとしていますそして漢の国の王様のその見返りに、たくさんの贈り物と、金印と呼ばれる印鑑を倭国の使いの人に渡します邪馬台国の卑弥呼の時代になると、邪馬台国が他の国と戦争しているときに、中国の魏の国に使いを送り応援を求めましたこのように中国大陸の国の力を借りて、当時の倭国の王様は日本列島を平定しようとした姿が中国の歴史書から伺えます1.3大和朝廷以前の日本にあったと言われる、女王卑弥呼が治めていた国家 ▥卑弥呼は誰だったのか?、大和朝廷との関わりは?など邪馬台国にはさまざまな謎があるとされており、様々な要素が絡み合って議論が続いている 「卑弥呼=天皇家の祖先(天照大神のモデル、または記紀に登場する女性皇族)」説がある 2.国家の統一と大陸文化の摂取2.1古墳時代(4-7世紀)▥代表的なのは天皇陵―大山古墳で(5世紀半)近畿にある。
2.2国家統一(350年) 4世紀ごろから7世紀中ごろにかけて,大和地方(奈良県南部)の豪族がのもとで連合し,各地の豪族をしたがえて生まれた国家この国を大和国家,その政府を大和朝廷という 大4世紀の末には、漢字が伝えられた2.3部民制〔べのたみ/べみん/ぶみん〕部〔べ〕の姓〔かばね〕を与えられ、倭王権/王室/諸豪族に属した官有民・私有民を「部民」と言います公民よりも下位に位置づけられますこの「部民」の生産力を経済的基盤とする政治的社会体制を「部民制〔べみんせい〕」と呼び、大化改新で「俸禄制」が導入されるまで実施されます2.4時代(592-710年)6世紀末から8世紀はじめにわたり,朝廷が奈良県の飛鳥地方におかれていた時期▽聖徳太子の活躍や大化の改新があり,仏教美術中心としたすぐれた飛鳥文化が開花した 2.5太子(574~622)▥飛鳥時代の政治家 天皇中心の国づくり 593年,20歳でおばの推古天皇の摂政(天皇の代理)となり,大臣の蘇我馬子と協調しながら政治を行った太子の願いは,豪族たちの争いをやめさせて天皇中心の強力な国家をつくることにあり,冠位十二階を定めて有能な人材を役人に登用したり(603年),十七条の憲法で豪族や役人の心がまえを説いた(604年)。
また,小野妹子おののいもこを遣隋使として中国につかわし(607年),隋と対等の国交を開き,大陸の文化や制度を移入した ▥太子の政治として,冠位十二階・十七条の憲法・遣隋使などが重要 2.6飛鳥文化 聖徳太子の時代(7世紀はじめごろ)を中心にさかえた日本最初の仏教文化、太子は,大陸からつたわった仏教を深く信仰し奨励したので,日本で最初の仏教文化が生まれたが,当時,都が(奈良盆地の南部)にあったので,飛鳥文化とよばれる飛鳥文化には南北朝時代の中国や,朝鮮半島の百済の文化が強く影響しているが,間接的にはギリシャ・西アジア・インドなどの文化の影響も見られ,国際性のあふれた文化であった 第3章 律令制国家1. 律令制国家の成立1.1大化の革新大化元年(645)に始められた政治改革で、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)や中臣鎌子(なかとみのかまこ)(=藤原鎌足ふじわらのかまたり)らが中心となって推し進めた 改革の目的は、大化2年のに次のような基本方針が示された①公地・公民(豪族が私有していた土地・人民を国家が直接支配する)②班田収授の法(戸籍をつくり、公地を公民に分けあたえ、死ぬと国に返す)③国郡制度(全国を国と郡に分ける)④租・庸・調の税制(公民に税や労役を負担させる)などを定めた。
この改新の詔は、のちの律令国家の出発点をなすものであったが、実現されたのは数十年後であった1.2の乱(672年)大化改新の中心人物であった天智天皇が亡くなったあと,天皇の弟の大海人皇子と天皇の子の大友皇子との間で皇位継承問題がおこりますこれが「壬申の乱」です 壬申の乱に勝利し、実力で皇位に就いた大海人皇子(天武天皇)の権力は強大なものとなり、天皇の神格化・律令体制の整備とが急速に進んだ 1.3(701年) 飛鳥時代の701(大宝1)年に制定された律令政治の基本法文武(もんむ)天皇の命令で,刑部(おさかべ)親王・藤原不比等らが中国(唐)の法律を参考にしながら,日本の実情に合うように編集した[コーチ]日本最初の完備した法律であり,大宝律令の制定によって,天皇中心の中央集権国家の体制がかたまった ▥口分田(P17) 大化の改新後,班田収授の法によって人民にあたえられた土地▥班田収授の法 はんでんしゅうじゅのほう 律令制のもとになった土地制度で,田を人民に分けあたえる法2.奈良時代と天平文化2.1遣唐使(7~9世紀)遣唐使の派遣 遣隋使に引きつづき,遣唐使は630年の犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)の派遣に始まり,894年に菅原道真(すがわらのみちざね)の提案によって廃止されるまで,十数回派遣された。
目的は唐との友好をたもち,すぐれた唐の制度や文化を取り入れるとともに,朝鮮など東アジアの情報をえることにあった遣唐船には大使・副使のほか,留学生や留学僧が乗りこみ,ふつう400~500人が4せきの船で渡海したP24)▥唐文化の伝来 危険をおかして唐にわたった人に,阿倍仲麻呂・山上憶良・最澄*・空海らの留学生・留学僧がおり,かれらがもたらした書籍や経典,また唐の新しい制度や文化は,日本の律令体制の整備や文化の発展に役だったまた,鑑真のように,たび重なる遭難にもめげずに遣唐使の帰国船で来朝した僧がいたこともわすれられないP25) 2.2奈良時代(P23) 奈良時代 710~784年,奈良に都のあった時代をさす▽天皇を中心とする律令体制がととのうとともに,国家の力は北は東北地方から九州南端にまでおよび,都を中心に唐文化の影響が強い,仏教色のこい天平文化がさかえたしかし,一方でに見られるように,律令制度の公地公民の大原則がくずれ,農民の生活も苦しく,藤原氏を中心とする貴族の対立がはげしい時代でもあった [コーチ]広義には,奈良時代の下限は794年までとなる ▥平城京 へいじょうきょう 710年に,天皇が藤原京より遷都してから,784年天皇が長岡京にうつるまでの都。
現在の奈良市西方にあたるP23) 2.3律令政治の動揺 天皇がめざした仏教中心の国家、仏の力で民衆を救おうとする理想は思うようにはならなかった国分寺(こくぶんじ)、国分尼寺(こくぶんにじ)、都の建設、大仏の建設などでいっこうに民衆の苦労は軽くならず、かえって、重税や労役(ろうえき)で生活が苦しくなった民衆は田をすて逃げ出すようになり、田畑があれはてた大規模な建築で国のお金も不足するようになったその上、723年に出された三世一身の法(さんぜいっしんのほう)、743年に出された墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)により、貴族や豪族がもつ土地がふえ、土地と民衆は天皇のものであるという公地公民制(こうちこうみんせい)がくずれたこれ以後、律令政治が乱れ、天皇の力が弱くなり、貴族たちが力が強くなっていく ▥三世一身の法 新しく切り開いた土地は、本人、子、孫の3代の間、私有を認める法律▥墾田永年私財法 新しく切り開いた土地は永久に私有することを認める法律これにより、貴族や豪族の土地がふえ、公地公民制がくずれたP25)2.4天平文化(P28)天平文化 聖武天皇の天平年間(729~749年)を中心にさかえた奈良時代の文化。
唐の文化の影響を強く受けた貴族中心の仏教文化で,インド・アラビアなどの文化もとり入れられて,国際性に富んでいる律令国家の発展を反映した壮大・華麗な文化で,平城京を中心にさかえた ▥文化の内容: 東大寺,唐招提寺のなど;現存する最古の漢詩集の『懐風藻』、歴史書『古事記』(712年)、『日本書紀』(720年)、和歌集の『万葉集』 ▥万葉集まんようしゅう 奈良時代につくられた日本最古の歌集▽全20巻約4500首の和歌がおさめられ,ほぼ・挽歌(ばんか)・雑歌(ぞうか)の3部類に分類されている歌の形式には長歌・短歌・などがあり,作者は天皇・貴族から,東歌・防人の歌をよんだ農民まで,あらゆる身分の人々におよぶ撰者はといわれるが不明力強く写実的な歌が多く,素朴で健康な古代の歌風が特色[コーチ]代表的歌人に・・・・・・らがいる 第4章 貴族の政治と武士の台頭1.平安時代と荘園の発達1.1平安時代(794-1192年)平安時代 桓武天皇が都を平安京(今の京都)にうつした794年からが鎌倉府を開いた1192年までの約400年間をいうP31)1.2荘園制度(P36-42参考) 8~16世紀の土地制度で,貴族・社寺の私有地である荘園を基盤として土地・人民を支配するしくみ。
▽日本の場合,荘園の領主を・といい,に荘園を管理させ,年貢を徴収させた荘園には租税をおさめない不輸の権と,役人(検田使)を入らせない不入の権があったので,国家財政に大きな影響をあたえた藤原氏の摂関政治が行われた平安時代に荘園は広がったが,鎌倉時代に入ると地頭の荘園侵略が始まった室町時代に守護大名・戦国大名の領国支配が強まると,荘園制度はくずれはじめ,秀吉の太閤検地によって,完全に廃止された 1) 8~9世紀の荘園制度 律令体制下、貴族・寺院らによる中央集権的な土地の支配古代日本では私有地として(天皇家)、(豪族)があったしかし大化改新により私有地が全廃される改新では国民に土地は「口分田」として制限付きで支給されたただし貴族・寺院の別荘、墓地、宅地の私有は許可された)政治が安定し人口増大と共に土地不足が深刻化する一方で、口分田はあくまで国家の土地であり私有化できないため、農民層の労働意欲も低下し生産能率も低下の一途であったそこで723年、三世一身の法を制定。