お祭り中間テスト 異文化 鍾イサン 9712800M語源・用法「まつり」という言葉は「祀る」の名詞形で、本来は神を祀ること、またはその儀式を指すものであるこの意味では、個人がそういった儀式に参加することも「まつり」であり、現在でも地鎮祭地鎮祭(じちんさい)は、土木工事や建築などで工事を始める前に行う、その土地の神(氏神)を鎮め、土地を利用させてもらうことの許しを得るこれには神式と仏式がある一般には、神を祀って工事の無事を祈る儀式と認識されており、安全祈願祭と呼ばれることもある祈願祭などの祭がそれにあたる日本は古代において、祭祀を司る者と政治を司る者が一致した祭政一致の体制であったため、政治のことを政(まつりごと)とも呼ぶまた、祭祀の際には、神霊に対して供物や行為等、様々なものが奉げられ、儀式が行われるその規模が大きく、地域を挙げて行われているような行事の全体を指して「祭」と呼ぶこともあるしかし宗教への関心の薄れなどから、祭祀に伴う賑やかな行事の方のみについて「祭」と認識される場合もあり、元から祭祀と関係なく行われる賑やかな催事、イベントについて「祭」と称されることもある「祭」は、語としては日本古来の祭を指す歴史が長いが、世界各地で行われる同様の行事にも訳語として用いられる。
日本の祭について英語で紹介する場合「フェスティバル」が訳語として用いられる原初的形態祭礼の形は世界各地で多様な形を示すが、原初の祭は一つの信仰に基づいていたと考えられるすなわち豊穣への感謝・祈りでありジェームズ・フレイザーSir James George Frazer, 1854年1月1日 - 1941年5月7日)は、社会人類学者スコットランドのグラスゴー出身原始宗教や儀礼・神話・習慣などを比較研究した『金枝篇』(The Golden Bough, 1890年 - 1936年)の著者の『金枝篇』で生命の死・再生を通して考察された農耕社会においては収穫祭が古いものであるが他にも祭壇に動物の生贄を捧げる形式があり、ともに命によって豊穣を得られる信仰が窺える『金枝篇』に載せられている例でいえばヨーロッパのキリスト教以前の色を濃く留めている風習の一つで、収穫した穀物を使い人形状のパンまたはクッキー(人体の象徴)を作り、分割する祭礼があり聖餐との類似が指摘されるキリスト教・仏教などの世界宗教にも祭礼がみられるが、教義より儀式・慣習によるところが大きい点で祭の要素は本質的に民族宗教に顕著であるともいえる。
狩猟民族でも獲物を捧げ豊猟を祈願する儀礼がみられる(熊送りなど) キリスト教の復活祭や、ボロブドゥール遺跡で行われているワイシャックのように、キリスト教・仏教などの世界宗教に基づく祭りもあるまた、アングロ・サクソン諸国のハロウィーンなどのように、世界宗教以前の信仰に基づくものや、世界宗教が伝来した各地で習合した形で伝わっている事例もある日本古来の祭古代の神道はもともとアニミズムアニミズム(英:animism)は生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方・シャーマニズムシャーマニズム(英: Shamanism, シャマニズムとも)は、シャーマン(巫師)の能力により成立している宗教的要素を持っており、世界宗教以前の民族宗教に分類される今日伝わっている祭も土着のものを起源とするという意味では民間信仰も交え、神道系に分類されるものが多いが、仏教伝来から長く経った為、神仏習合の影響を受けているものもある祭は民俗学で「ハレとケ」の非日常性の空間を象徴するものである日本神話に出てくる天岩戸天岩戸(あまのいわと)とは、日本神話に登場する岩で出来た洞窟である天戸(あまと)、「岩」は「石」と書く場合もある。
太陽神であるアマテラスが隠れ、世界が真っ暗になってしまった岩戸隠れの伝説の舞台であるの話を摸した儀式などが日本で最も古いものとして知られている初期の「まつり」は、人目に触れない所で密かに行われるものであった今日でも、中心となる儀式を限られた者のみで行う祭が一部にある伊勢神宮などの神主の奉仕、一般は奉賛、または奉納仏教と祭り仏教の影響を受けた神仏習合の色が濃いものとしては土着の祖霊信仰や言霊の呪術性を帯びた念仏踊りを取り入れた盆踊りがあり、習合した盂蘭盆会に繋がるまた、神事から発達した田楽・猿楽などが能など後の日本中世伝統芸能を形作る素地となった仏教公伝(ぶっきょうこうでん)というのは国家間の公的な交渉として仏教が伝えられることをいう日本においては6世紀半ばの欽明天皇期、百済から倭(古代日本)への仏教公伝のことを指すのが一般的であり、この項でもそれについて説明する単に仏教伝来と呼ぶこともあるが、後述のごとく公伝以前に、すでに私的な信仰としては伝来していたと考えられるため、「公伝」と称されることが多い公伝以前の状況北インドの地で生まれた世界宗教としての仏教は、主として東南アジア方面(クメール王朝、シュリーヴィジャヤ王国)に伝播した上座部仏教(南伝仏教)と、西域(中央アジア)を経由して中国から朝鮮半島などへ広がった大乗仏教(北伝仏教)に分かれる。
古代の倭に伝えられたのは後者の流れである中国において紀元1世紀頃に伝えられた仏教は、原始インド仏教の忠実な継承にこだわることなく、戒律や教義解釈などで独自の発展を遂げた特に4世紀における鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)の翻訳による漢訳仏典の充実は、漢字を共通の国際文字として使用する周辺諸国への北伝仏教の拡大に大きな影響を及ぼすこととなった南北朝時代には三論宗・成実宗などの経学が流行し、これらの流れがさらに東へ伝播していく北魏の孝文帝や「皇帝菩薩」と称された梁の武帝など、仏教拡大に熱心な皇帝も現れ、周辺諸国への普及も加速した唐朝を一時中断させて武周朝を建てた武則天も、妖僧薛懐義を重用し、一種の恐怖政治を行うなど問題が多いが、熱心な仏教信者であったその武周革命には、偽作(1) あるいは疑経とは、中国において、漢訳された仏教経典を分類し研究する際に、インドまたは中央アジアの原典から翻訳されたのではなく、中国人が漢語で撰述したり、あるいは長大な漢訳経典から抄出して創った経典に対して用いられた、歴史的な用語であるとはいえ仏教経典である『大雲経』を利用しており、日本の国分寺に通じる大雲経寺を各地に建立した。
公伝年代をめぐる諸説日本への仏教公伝の具体的な年次については、古来から有力な説として552年と538年の2説あることが知られており、一般的に538年が有力とされるしかしこの両説に限らず、仏教公伝の年次については近年も様々な説が提唱されているただし各史料の記述から、欽明天皇期に伝来したことは疑いないと思われる仏教の伝来552年(538年説あり)に仏教が公伝した当初には、仏は、蕃神(となりのくにのかみ)として日本の神と同質の存在として認識された日本で最初に出家して仏を祀ったのは尼(善信尼)であるという記録が日本書紀にあるが、これは巫女が日本の神祇を祀ってきたというのをそのまま仏にあてはめたものだと考えられている寺院の焼亡による仏の祟りという考え方も、仏には祟るという概念が無いため神祇信仰をそのまま仏に当てはめたものと理解できるl 台湾への道教台湾や東南アジアの華僑・華人の間ではかなり根強く信仰されている宗教である中華人民共和国では文化大革命によって道教は壊滅的な打撃を受けたが、民衆の間では未だにその慣習が息づいているまた現在では宗教帰依が許され、その宗教観の修復がなされている台湾における宗教は、特に仏教・道教・儒教の三大宗教が漢民族の間で盛んであり、人々は今日でも宗教と深くむすびついている。
道教系は疫病の神・王爺や海の女神・媽祖に対する信仰が多いただし、仏教・道教・儒教の区分は大変あいまいで、相互に強く影響を受け合っていることから、各地にある廟では各宗教の神々が合祀されていることが珍しくないそれは、日本でもそうですそのために、漢民族の宗教生活は各宗教が混合されており、人々はそれぞれの状況に応じて参拝する神々を変えているl 日本への道教仏教や儒教と同じ頃に道教も日本に渡来した律令制にも道教に関する役所が採用されたが、民衆運動や政争に利用され、仙人になるために水銀などの危険薬物を使うため、やがて廃止されたそれにかわって、陰陽師が道術を取り入れ、日本独自の陰陽道が生まれた陰陽師としては、平安時代の安倍晴明などが有名である「天皇」という称号も道教に由来するという説がある(天皇大帝参照 すなわち北極星という意味であるという説)また、道教が日本の文化に受け入れられなかった理由の一つとして、仙人思想が日本文化に確立された天皇制を覆す思想に繋がるという理由で日本人には受け入れることができなかったためである、という説もあるl その関係媽祖は日本在来の船玉信仰や神火霊験譚と結び付くなどして(1)海を渡る女神たちの姿を読み解く――媽祖を中心とする航海神の図像史学的研究。
各地で信仰されるようになった江戸時代以前に伝来・作成された媽祖像は、南薩摩地域を中心に現在30例以上確認されている(2)日本の媽祖信仰と南薩摩の媽祖像江戸時代前期に清より来日し、水戸藩二代藩主徳川光圀の知遇を得た東皐心越が伝えたとされる天妃神の像が、茨城県水戸市の祇園寺に祀られているまた、それを模したとされる像が、北茨城市天妃山の弟橘姫神社、大洗町の弟橘比売神社(天妃神社)、小美玉市の天聖寺にも祀られている青森県大間町の大間稲荷神社には、天妃媽祖大権現が祀られている元禄9年に大間村の名主伊藤五左衛門が水戸藩から天妃(媽祖)を大間に遷座してから300周年を迎えた平成8年以降、毎年海の日に「天妃祭」が行われているこの大間稲荷神社は台湾の媽祖信仰の総本山である雲林県の北港朝天宮と姉妹宮である平成12年以降、長崎市の長崎ランタンフェスティバルにおいて、長崎ネットワーク市民の会の企画運営で「媽祖行列」が行われている興福寺に媽祖をお迎えすることで祭りが始まるなお、天母教日本統治時代の台湾に生まれた神道系の新宗教の一つである扶桑教の一派とされ、中治稔郎によって創立されたは日本統治時代の台湾に生まれた神道系の新宗教の一つである。
その教義は、日本の天照大御神と媽姐が同一のものであるとするもので、台湾における民間宗教を取り込み、その教化を図ったものである平成18年3月17日、横浜に横浜媽祖廟落慶渡来人による私的崇拝古代の倭へは、古くから多くの渡来人(帰化人)が連綿と渡来してきており、その多くは朝鮮半島の出身者であった彼らは日本への定住にあたり氏族としてグループ化し、氏族内の私的な信仰として仏教をもたらし、信奉する者もいたと思われる彼らの手により公伝以前から、すでに仏像や経典はもたらされていたようである522年に来朝したとされる司馬達等(止利仏師の祖父)などはその好例で、すでに大和国高市郡において本尊を安置し、「大唐の神」を礼拝していたと『扶桑略記』扶桑略記(ふそうりゃくき)は、平安時代の私撰歴史書総合的な日本仏教文化史であるとともに六国史の抄本的役割を担って後世の識者に重宝された仏教公伝と当時の国際環境4世紀後半以降、高句麗・百済・新羅は互いに連携・抗争を繰り返していた6世紀前半即位した百済の聖明王(聖王)は、中国南朝梁の武帝から「持節・都督・百済諸軍事・綏東将軍・百済王」に冊封され、当初新羅と結んで高句麗に対抗していた。