武家社会の展開,鎌倉幕府から室町幕府まで,鎌倉幕府 前提回顾,时间:1192年—1333年(有争议) 建立者:源頼朝(みなもとよりとも) 重要事件:1192年源赖朝出任征夷大将军; 1219年源氏灭亡,北条氏掌权;1221年承久之乱;1274年 文永之役;1281年 弘安之役 等等 经济:货币经济 守护地头制 政治:御家人制度 得宗专政制度 文化:佛教发展,净土宗产生;军记物语和和歌发展;建筑绘画等收中国和佛教影响深远,鎌倉幕府の滅亡,两统迭立(りょうとうてつりつ)镰仓后期,后嵯峨天皇死后,在皇位继承上出现了后深草天皇(持明院统)和龟山、后宇多天皇(大觉寺统)两支皇统的对立两皇统都想利用幕府的力量达到唯我独尊,结果反受幕府干涉,在幕府的提议下形成了两皇统交替即位的协定从后宇多天皇到后醍醐天皇的6代天皇为两统交替继位但两统对立未能消除,后来发展成为南北朝对立的局面公元1259年,已退位的后嵯峨天皇废立已即位的后深草天皇,立七子恒仁继位为龟山天皇,从而使两个天皇产生对立,后深草子孙形成的持明院统皇室,和龟山后裔的大觉寺统皇室自此不断为了皇位问题激烈斗争这时镰仓幕府居中进行调停,最后决定由两方的子弟(皇统)轮流继任天皇。
两统迭立皇位继承顺序示意图,后醍醐天皇和倒幕运动一,倒幕运动(とうばくうんどう)的起因在德治三年(1308年)持明院统的花园天皇即位时,尊治亲王被立为皇太子在文保二年(1318年)因为花园天皇让位之故以三十一岁的后醍醐天皇壮年登基,同年阴历3月29日(4月30日)即位即位后的3年时间里由父亲后宇多法皇开设院政根据后宇多法皇的愿望,后醍醐天皇(ごだいごてんのう)将哥哥后二条天皇的遗子邦良亲王立为皇太子;并将自己的儿子降为亲王,否定了其皇位继承权这引起了后醍醐天皇的不满,同法皇发生了矛盾这也引起了镰仓幕府的不满,最终元亨元年(1321年)后宇多法皇的院政被废止,后醍醐天皇亲政失去法皇这一保护伞的邦良亲王后来也没能即位虽然镰仓幕府在1274年和1281年两次成功抗击元朝的入侵,但受货币经济影无法赏抗元官兵,导致了武士对幕府的不满日益增高后醍醐天皇积极筹备倒幕计划后醍醐天皇和倒幕运动二,正中之变(しょうちゅうのへん)1318年,大觉寺统的后醍醐天皇即位,决心恢复皇室权威他废除了多年的院政,实施亲政后醍醐天皇认识到要夺回实权,必须清除幕府这一障碍为改变长期皇权旁落的局面,后醍醐天皇以诗会、游艺为名,在日野资朝等大臣的协助下,秘密筹划倒幕,并决定在北野祭这天起兵。
但计划却被幕府得知,事先逮捕了日野资朝等几名主要大臣,并将他们流放,第一次倒幕运动失败此事发生于1324(正中一)年,史称“正中之变”后醍醐天皇和倒幕运动三,元弘之乱后醍醐天皇并未因此放弃他的计划,他集结了各大社寺僧兵和近畿的武士,准备再次倒幕1331年,大臣吉田定房向幕府告密,计划败露大臣日野俊基被捕,天皇仓皇出逃,在赤坂城起兵的楠木正成也被幕府军打败,史称“元弘之乱”幕府废除后醍醐天皇,立光严天皇,后醍醐天皇被流放于隐歧第二次倒幕又告失败后醍醐天皇和倒幕运动四,流放和复归虽然“元弘之乱”失败,但以近畿、东国为首的各地武士和农民的反幕府运动此起彼伏流放于隐歧的后醍醐天皇仍在筹备第三次倒幕1332年,护良亲王首先在吉野起兵,楠木正成于河内呼应1333年,各地豪族都举起了反幕大旗幕府派当时最有力的御家人足利高氏去京都平乱,但早已不满北条氏专制的足利高氏中途反戈,一举击溃了京都六波罗府接着,新田义贞又攻下镰仓,最后一代执权北条高时自杀,镰仓幕府宣告灭亡建武(けんむ)の新政(しんせい),,与足利尊氏合作一起推翻镰仓政府的统治后 ,1333年6月后醍醐天皇重新即位,1334年改元“建武”,开始建武新政。
天皇的权力也进一步得到集中,设置了中央最高机关记录所、杂诉决断所,重整天皇亲政的政治机构但这些机关的职员大部分是公家,虽然足利尊氏被赐予了极高的官位,但是并没有处于政治中枢 新政府在初政政策和赏赐方面上也出现了很多失误引起了很多混乱、不公平事的事情,只重用京都的公卿贵族,辜负了武士们的期待,未能满足武士的要求一些问题的处理也无视武士社会的习俗,缺乏恰当的措施,结果武士对新政越来越失望,希望复兴武家政治的武士变得越来越多,问题日益严重化建武新政内容,1、制订了《所领个别安堵法》,以挽救“士卒民庶”的贫困,安定社会人心宣布新“ 德政令”,以图恢复原土地所有者的权利 2、任命了新国司和新守护,企图恢复平安时期的知行国制,给权门世家以支配知行国的特权 3、 对幕府的有功之士进行奖赏 4、 整治国家机构,天皇实行亲政中央只设置直属于天皇的记录所(负责行政)、 杂诉决断所(负责诉讼)、武者所(负责京都治安)、洼所(侍所)中先代の乱,,在这种形势下,公武之间产生激烈的对抗作为代表,担负武士们的众望的尊氏与对尊氏抱有警戒心的护良亲王的对立开始表面化亲王谋划袭击尊氏,等待时机,由于尊氏用强大的兵力守卫自身,亲王的计划未能成功。
建武元年(1334)十月,尊氏对天皇施加强大压力,于是天皇向尊氏屈服,下令抓拿护良亲王十一月,亲王被护送到镰仓的东光寺幽闭 1335七月,北条高时的遗子北条时行在关东举兵,对新政不满的近国武士们聚集,很快成为极大的势力时行带领大军迫近镰仓,足利尊氏的弟弟足利直义迎击,战败,之后杀死幽闭中的护良亲王,拥护成良亲王尊氏接到消息后,向朝廷请求让自己去讨伐北条时行,并要求担任征夷大将军然而没有得到允许,结果成良亲王成为了征夷大将军后来尊氏没有得到朝廷的准许的情况下,在八月二日离开了京都,三河国与足利直义一起不断击破北条时行带领的叛军,在十九日收复了镰仓这就是中先代之乱随后尊氏对各位将士进行赏赐,并留在了镰仓南北朝(なんぼくちょう)の動乱,南北朝(なんぼくちょう,罗马字:Nanboku-chō) 发生于1336年-1392年,之前为镰仓时代,之后为室町时代在这段时期里,日本同时出现了南、北两个天皇,并有各自的承传足利尊氏率兵反叛,迫后醍醐天皇退位,并立持明院统之光明天皇光明天皇策封他为征夷大将军,建立室町幕府,是为北朝之始而后醍醐天皇被迫退位后设法逃出,持着天皇象征的三神器退往大和(今奈良县)的吉野,是为南朝,至此南北朝终于形成,史书还称为“一天二帝南北京”。
经过多次攻防后,南朝势力衰退,终于南朝天皇把三神器交给北朝天皇,结束了南北朝时代直至20世纪初期幸德秋水提出当时明治天皇的正统性问题,明治天皇最后作出结论:以南朝天皇为日本的正统,北朝天皇保留名号,但不列入正统日本三大神器,后醍醐天皇(左)和足利尊氏(右)图,南北朝地图,室町幕府(むろまちじだい )的開始,时间:1336—1573年 创立者:足利尊氏(あしかが たかうじ) 开始标志:1336年11月7日公布的《建武式目》为标志,拉开了足利幕府的统治序幕室町幕府名称由来:足利义满于1378年(永和四年)在京都的室町建造了一个豪华邸宅,称为“花 御所“,并在此执行政务,因此足利幕府也被称为室町幕府けんむしきもく 建武式目 十七条内容,倹約を行はるべき事 群飲佚遊を制せらるべき事 狼藉を鎮めらるべき事 私宅の点定を止めらるべき事 京中の空地、本主に返さるべき事 無尽銭・土倉を興行せらるべき事 諸国の守護人、ことに政務の器用を択ばるべき事 権貴ならびに女性・禅律僧の口入を止めらるべき事,けんむしきもく 建武式目 十七条内容,公人の緩怠を誡めらるべし。
ならびに精撰あるべき事 固く賄貨を止めらるべき事 殿中内外に付き諸方の進物を返さるべき事 近習の者を選ばるべき事 礼節を専らにすべき事 廉義の名誉あらば、ことに優賞せらるべき事 貧弱の輩の訴訟を聞し食さるべき事 寺社の訴訟、事によつて用捨あるべき事 御沙汰の式日・時刻を定めらるべき事,しゅごりょうごくせい くにびといっき 守護領国制 と国人一揆,室町期の守護は、幕府から数年ごとに補任されており、守護職の交替は比較的頻繁に行われていたしかし、14世紀末ごろになると、一定の氏族がその国の守護職を相伝(世襲)するという守護職の固定化が見られるようになっていたさらに同時期までに、守護職には大犯三ヶ条の検断権、刈田狼藉の検断権、使節遵行権、半済給付権、闕所地給付権、段銭・棟別銭の徴収権など、軍事・警察的職権から経済的利得権まで広範な権能が付与されるようになった大犯三ヶ条と大番役などの軍事・警察的職権に限定されていた鎌倉期守護と比べて、室町期守護の権能は非常に拡大しており、両者を区別するために室町期守護を特に守護大名という以上のように、守護職の固定化および権能の大幅な拡大を背景として、室町期守護は、領国内の在地領主(国人)、土地、人民(百姓など)に対する一円支配(一元的な支配)を強化していった。
しゅごりょうごくせい こくじんいっき 守護領国制 と国人一揆,14世紀後半から15世紀にかけて形成された国人領主の階級的結集国人領主の動向が重要な歴史的意味をもつようになるのは、14世紀中葉の観応の擾乱の前後からである南北朝の内乱を経過するなかで、在地領主層は悪党状況を止揚して国人領主制を展開するに至り、室町幕府・守護(しゅご)・荘園(しょうえん)領主の興亡に大きくかかわるほどに実力を蓄積していった室町幕府や守護勢力による政治的干渉を排除し、流通経済の地域的発展に対応するために、国人領主層は鋭い政治的感覚をもっているのが特徴である守護などの上級権力と対峙し、かつ領内の土地と人民の支配を貫徹するためには、強力な軍事力を養い、国人相互間の階級的結集が必要であった南北朝・室町期に、一揆契状を取り交わして形成される国人一揆は、多様な形態をもっていたが、国人領主間の地縁的結合組織であり、成員間の平等を基礎にした契約的関係で結ばれ、事の理非を決定する際に、多数決制を採用していたことなどに共通の性格を認めることができるしゅごりょうごくせい こくじんいっき 守護領国制 と国人一揆,国人一揆は、1400年の信濃大文字一揆にみられるように、守護などの外部勢力の侵入に反対する在地領主層の統一戦線として形成されることが多かった。
しかし、一揆契状に境相論や市町での喧嘩などに対する措置とともに、逃散百姓や下人への対応策が書かれているのをみれば、領域内の農民支配を貫徹するための組織でもあったことは明白である南北朝内乱期に、各地の農村に形成された惣結合は、領主権力に抵抗するための闘争組織を一段と強化充実させていった農民の地域的連帯が進めば、闘争は個別国人領主の弾圧能力をはるかに超えるものとなった闘争の一形態である農民逃散が、近隣の惣結合と密接な連携のもとに、国人領主の支配領域を越えて展開すれば、人返しの問題をめぐって領主相互間に深刻な矛盾が発生することは必然であったその矛盾を解決する一つの方策は、国人領主が地域的結合組織を生み出すことであったわこう かんごうぼうえき 倭寇 と 勘合貿易,勘合贸易(日明贸易)含义:日明貿易(にちみんぼうえき)は、室町時代に日本が中国の明朝と行った貿易貿易の際に、倭寇と区別し正式な遣明使船である事が確認できるよう勘合(勘合符)を使用したことから勘合貿易(かんごうぼうえき)とも呼ばれるわこう かんごうぼうえき 倭寇 と 勘合貿易,室町幕府3代将軍の足利義満は、博多商人肥富より対明貿易が莫大な利益を生むことを聞いていた。
義満は1401年(応永8年)に、肥富と僧祖阿を明へ遣明使として派遣し、彼らは翌年に明の国書を持ち帰国する明使の在日中に靖難の変で永楽帝が即位すると、明は再び国書を送り、日本と明の間に国交と通商の合意が成立した1401年(応永8年)から1549年(天文18年)まで、19回に渡り交易が行われる1404年(応永11年)以降は勘合符を所持した者に限られるようになり、1432年(永享4年)に宣徳条約で回数などが規定される勘合には「日字勘合」と「本字勘合」の2種類が存在した制限貿易で、日本→明は「本字勘合」、明→日本は「日字勘合」が使用された。