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町田市史下巻大正昭和

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町田市史下巻大正昭和_第1页
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町田市史 下巻 町田市史 下巻 大正・昭和 大正・昭和 第一章 大正時代の町田 第一章 大正時代の町田 第二節 関東大震災と市域 第二節 関東大震災と市域 大地震発生 大地震発生 「その日は九月とは名ばかりの真夏のような暑さで、風も死に、炒られるよ うであった私の店(エビスヤ靴店、現吉川百貨店の位置)はそのころ一日、 十五日が定休日だったので、八王子の学校を早く帰ってきた私を、父が釣に連 れてゆくというので、近所の溝をあさり、みみずを掘り餌箱を父に渡した折 柄食事のおかずは豚肉のシチュウで、よいにおいが空腹をうったその頃の町 田は都市ガスはもちろん、プロパンさえなく、カマドに大きな鉄鍋だったも ちろん焚木は薪であるなにか突然境川の方からゴーッという地鳴りと同時に ぐらぐらときたその震動は私どもが理解している地震というイメージをはる かにこえていた上下動と水平動の混合でこの世の終わりを思わせた全く初 期微動等は感じられず、 ゴーッのぐらぐらであった 」 これは原町田に住む M 氏 がとくに寄せて下さった追憶である ( 「関東大震災の思い出」 ) この運命の日とは大正十二年(一九二三)九月一日午前十一時五八分四四秒 六、酒勾川口須賀村と大島千が崎を結ぶ線と伊東町と館山町を結ぶ線のクロス した東経一三九度二一分八秒、北緯三四度五八分六秒(相模湾)を震源地とし たマグニチュード七・九(烈震)の地震であった。

この地震は東京、神奈川、 埼玉、静岡の一府三県、とくに関東地方南部の揺れ方は激しかった 東京市は地震直接の被害よりも火災による第二次災害が大きかったため府下 の震動はあまり注目されていないが、図版9(省略)でみるように市域は相模 湾の北北東にあり、震源地には市域の方が東京市街地より距離的に近く揺れ方 は市域のほうが激しかったと思われる 南関東で関東大震災の規模の地震で大被害がでたのは安政二年(一八五五) の「安政の大震災」であるこのときは、江戸亀有付近が震源地で「直下型」 であり、規模はマグニチュード六・九、死者七〇〇〇人から一万人、焼失家屋 一万四〇〇〇戸といわれる明治に入って東京をおそったマグニチュード五以 上の地震は一五回で、その震源地分布は図版10(省略)であり、相模湾でマ グニチュード八程度の大地震の周期は約二〇〇年といわれているその間、マグニチュード六規模の地震は明治二七年(一八九四)六月二〇日、東京地方を 襲ったもので、このときは死傷者一五〇余名、家屋全潰二九戸、家屋破損のは なはだしいもの二二〇〇余戸であったしかし「安政の大地震」から「関東大 震災」は六八年を経ていて、大地震の体験者はわずかしかいなかった。

多くの 人々ははじめて大地震を体験したのである 当時、神奈川県酒勾小学校の訓導であった鶴間の I 氏は当時、学校に在って、そ の時の模様をつぎのように語っている 私は激震地に一番近い所にいた小使いさんたちが逃げだしてコロコロ ころがっているのが向こうに見える また木につかまっているのが見える 地面がどおっと持ち上がってきて顔にぶっつかるような感じで、それはひ どい揺れ方で今では想像はできません 関東大震災を経験した人々は異口同音に当時の恐怖をつぎのように語っている 今の都道三九号線は当時六尺道路でしたこれが真光寺から丁度私のと ころを出た線から広袴は、全部一瞬のもとに八裂になり辛うじて両端の残 ったところを歩いて通った橋はことごとく破壊された (真光寺 O 氏) 地震というものはおっかないものだなぁということをつくづく感じさせ られたのは、上下動だからくるものもくるものも皆上にいってしまう横 にくるというのはないしたがって私のすぐそばに橋があったがその橋な どは一番先に落ちたそれで私の家の前は十字路のそばですから東西・南 北と道路があるが、その道路が揺れるたびに大人の足が二本一緒に入るく らいの口があき、ひどいものでした。

(相原 N 氏) 避難 避難 青天の霹靂ともいうべき大地震に見舞われた市域の人々は、どう対処したの であろうか 私は無意識に店(エビスヤ靴店)へかけ出したが、棚のものがガラガラ 落ちるのに驚き、あわてて裏の空地へ転がりながら飛び出したがすでに縁 側は壁土でざらざらしていたのを忘れない近所の人たちもやはり身の危 険を感じてか三百坪ぐらいの空地に集まったそしてだれ一人立っている 人はなかった びびっと地割れが走るので誰かが雨戸を五、六枚はずして来たので、み んなそれに乗った幸い人が呑まれる程の地割れではなかった少したつ ともうもうたる土埃が上り、空もくらみ天地玄黄として壁土の臭いがむせ るばかりこの間にもぐらぐらの連続で息つくひまもなかった お年寄りが「マンダラク、マンダラク」と片手拝みをしているので何の 事かわからなかったが子供達も真似をしたそうすると何か心安まる思い であった 大揺れがひととおり終わったころ誰かが叫んだ 「火の元を気をつけ ろ!」みんな“あっ”と思ったどこの家でも昼食の仕度で必ず何かしら 煮物をしていた筈であるそこに誰かが気がついたのだいくらか余震が 弱まり、どうやら立って歩けるようになったので、私は一目散にお勝手に 走った。

天の摂理というか、幸運と云うか貴重なシチュウの鍋がそこでひ っくりかえり薪の火がシチュウの焦げた匂いを漂わせ、細々と煙りをあげ ていた自然に消火されたのであるしかし、それを確かめるのはお勝手 の鍋や茶碗や皿の山を片付けなければならなかったそこで私は初めて空 腹を覚えたものである たしか夕方になって握りめしを食べた記憶があるが、誰がどう持って来 たのか記憶がない夕方になっても間断なく余震が来たが、だんだん地震 に馴れたというか、今夜の寝る所を大人たちは相談していたようである 丁度そのころ I 氏の竹藪があったので(今のマツヤマ百貨店の裏あたり) その中にむしろを布き、壊れた家からなんとか布団を引張り出し蚊帳を吊 り、一家雑魚寝と相成った勿論電気はないしローソクの灯りが何本かゆ らいだ 大人達はおそらく緊急にムスビを作る相談をしたものであろうか、竹薮 の住人には、どうやらムスビと沢庵と梅干しがきたお茶は勿論なかった が車井戸は釣瓶が落ちているので水も汲めない塩のきいた握りメシは咽 喉が焼けつくばかりであった (前掲 M 氏回想記) このように市域の人々は、昔から竹薮は地下に強く根を張っているので絶好 の避難場所として竹薮に逃げ込み、残暑の厳しい時節であったので夜は蚊張を 吊って蚊を避け、家屋の全壊・半壊の難にあった住民は地震発生後、一週間も 竹薮での生活を強いられた。

市域の被害状況市域の被害状況 それでは市域の被害はどのくらいあったのであろうか、 『大正震災志』による 家屋・人的被害は図表20(省略) 、道路・橋梁の被害額は図表21(省略) 、 そのほか郡単位の建物・損害金額見積・養蚕の作柄被害状況は図表22(省略) にそれぞれ示した 市域内の死傷者のうち地域別では堺村が圧倒的に多いこれは堺村相原では、 谷戸が部落を形成していたので地震による山崩れ、崖崩れ等によって死傷者が 多く出た 山崩れのため形なしになった家が二軒あったそれから一軒は半分もがれたそれらのうちの一軒は家族六人が全部生き埋めになったそのうち のお嫁さんと子供がその日の夕方に土の割れ目から泣き声を出していると いうので掘出し二人は助かったもう一軒の方は夫婦で住んでいたが山が 崩れてくるので、旦那さんは奥さんの手をひいて逃げだそうとしたところ へ山崩れが来て、その奥さんは胸から下を埋められ、旦那さんの方は左足 を埋められてしまった二人とも近所の人が掘り出したが旦那さんの方は びっこをひきながら一ヶ月ぐらい薬を塗っていたが、 奥さんの方は 「痛い! 痛い!」と叫びながら二日の朝に亡くなった。

(相原 N 氏談) 町田町の死者は、町田銀行のコンクリート塀が倒壊して支店長代理、南大谷 の A 氏と原町田三丁目の U さんの祖母が下敷となって即死している 相原では小学校の天井が三教室とも落ちたにもかかわらず児童たちには被害 がなかった当日鎮守社のお祭りで先生が児童を引率して鎮守社に参拝の途中 地震にあったため、小学校を空にしていて難をまぬがれたのである 家屋の倒壊は町田町では神奈川街道沿いの目抜き通りで六〇余戸の倒壊家屋 を出したまた横浜線原町田駅(二日の余震) 、鉄筋ブロック建の瀬谷銀行原町 田支店、鉄筋コンクリート建の町田銀行、丸通の倉庫が全壊したまた、堺村 相原尋常小学校校舎(間口一三間、奥行五間半)は半潰大破した半潰という と住めるような印象を与えるが、マッチ箱を潰したような状況でも半潰と認定 されたこの調査はのちに住民の不満をかったという 鶴川村では年代を経た家が多く、半潰の家ではとても住める状態ではなかっ た倒壊家屋が多かったにもかかわらず地震による火災の起こらなかったのは 不幸中の幸いであった この地震によって水脈にも変化があった町田町では菜園の傍の水溜りが、 いつの間にか跡かたもなくなり、ぬかるみも渇いた。

地震発生から一時間あと に境川の水が増水し、雨が降っていないのに数日分ぐらいの雨量と思われるほ どの水が約半日ぐらい増水を続けたというまた、小山から下のほうは水が少 なくなり、鶴見川・恩田川は湧水が増えたといわれている道路は地割れし八 裂のように破壊され、橋もほとんど落ちてしまった当時はコンクリート製の 橋は少なく多くは土橋であったからである 産業などへの被害産業などへの被害 関東大震災の経済的損失は、京浜工業地帯が潰滅状態となり、被害金額は約 六五億円とみられる一一年の国家の一般会計予算が一四億七〇〇〇万円であ るから、約四ヵ年分が灰になった計算になる 市域の町村道、橋梁、護岸の被害は図表21(省略)で南多摩郡の全損害中 の約七〇パーセントを占めている養蚕者の被害状況も図表22(ハ) (省略)のようで、市域の重要な産業に大きい打撃をうけたのである真光寺 O 氏は鶴 川村の産業の被害をつぎのように語っている 一番被害を受けたのは田圃ですでこぼこになり、あちらの端は山にな り、これは自然に揺すぶられて山になったものです鶴川辺で一番被害を 受けたのは柿の生産です養蚕に次いでの収入源で、米のとれないときの 生活の補助をしていたのが禅寺丸でした。

ところが震災のために柿が全部 だめになってしまいましたそれは柿の根がすっかりいじめられてしまっ たからですそれが震災後昭和一六年かに一回なったように記憶していま す極端なことを申しますと昭和二〇年まで自然の収穫はありませんでし た田圃などは地割れによって水を張ってももたず、したがって米の収穫 はいくらもなかった (注)一三世紀のころ、今の川崎市柿生の王禅寺住職であった等海上人が 本堂再建用の用材を選ぶため山に入ったとき、深紅の色に燃えた柿の老木 を発見し、その実をとって味わったところ、実においしいので、早速これ を寺内の柿に接木をすると共に、付近の農家にもすすめて接木をさせた これが段々広まって、この地方一帯が柿の名産地となったこの禅寺丸が 江戸に出て町民に愛好され、初めはその地名をとって王禅寺丸と呼ばれて いたが、呼びにくいので王の字を省いて、ただ禅寺丸と言われるようにな った禅寺丸の生産地域は川崎市柿生を中心とした地域で、市域では鶴川 村、忠生村で、鶴川村では能ヶ谷、三輪のものが最も良質とされている ( 『鶴川村誌』九五~九六頁) 横浜線では地震のため長津田駅と中山駅の間を走っていた列車が災難にあい、 貨車四輌が脱線転覆した。

横浜線は被害甚大で原町田駅~八王子駅間が復旧開 通したのが九月。

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