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芥川龍之介の蜘蛛の糸について

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芥川龍之介の『蜘蛛の糸』について 要 旨:芥川龍之介は「新思潮派」の代表作家の一人であり、日本文壇の「巨匠」と賞賛されている芥川文学はエゴイズム文学、個人主義文学であると言われるつまり、芥川の作品を貫き通しているのは人間性の醜悪の一面を探求するということであるしかし、『蜘蛛の糸』という作品では善悪併存という観点が出てきたそして、この作品について簡単に分析していきたい  キーワード:芥川龍之介;創作意図;善悪併存;自我救済  はじめに  芥川龍之介は「新思潮派」の代表作家の一人であり、森鴎外-夏目漱石とともに、20 世紀前半期の日本文壇の「三巨匠」と称賛された芥川の作品は、広範な題材、豊富な内容、簡潔で練れた文体、深刻な寓意などの特色を持っていたから、多くの読者を魅了し、日本文壇で芥川が「奇才」「鬼才」と呼ばれるのであるそして、「芥川賞」という重要な文学賞が設立された芥川文学はエゴイズム文学、個人主義文学であると言われるつまり、芥川の作品を貫き通しているのは人間性の醜悪の一面を探求するということであるしかし、『蜘蛛の糸』という作品は他の作品と少しの異なった所がある本稿では、芥川の童話作品『蜘蛛の糸』について簡単に分析する。

  1.『蜘蛛の糸』について  (1)原典  『蜘蛛の糸』は、芥川龍之介の最初の児童文学作品であり、1918年に鈴木三重吉によって創刊された児童向文芸誌『赤い鳥』創刊号に発表されたこの物語には原典となる作品がある一つ、アメリカのポール-ケーラスという文学者の著書である『カルマ』という作品であるもう一つの作品は、ドストエフスキーの『カラマーゾラの兄弟』の「一本の葱」である  (2)あらすじ  『蜘蛛の糸』は三つの部分から構成される掌編小説である  「一」では朝の極楽の風景が語られる真っ白な蓮の花が馨しい匂いを発しているお釈迦様が池のふちをぶらぶらと歩いている極楽の池の真下は、ちょうど地獄の底になっているお釈迦様が池から覗き込むと、地獄の底で、かんだたという大泥棒が苦しめられているお釈迦様は、大悪人のかんだたも、一度だけ善行をしたことを思い出したお釈迦様は、その報いに、できることなら、かんだたを地獄から助け出してやりたいと思ったちょうど、蓮の葉の上に、極楽の蜘蛛が糸をかけていたお釈迦様は、蜘蛛の糸を地獄に垂らした  「二」では地獄の様子が語られる蜘蛛の糸を見つけたかんだたは、大喜びして登り始めた。

しかし、地獄から抜け出すのは何万里もあったかんだたは、途中で一休みした下を見ると、自分のあとに、何百、何千という地獄の罪人たちが、蜘蛛の糸を伝って登ってきているのが見えた自分一人でさえ切れそうなのに、これだけの人数が登ってきたらたまらないかんだたは、「こら、罪人どもこの蜘蛛の糸はおれのものだぞお前たちは一体誰にきいて、のぼって来た下りろ」と叫んだその瞬間に蜘蛛の糸が切れてしまった  「三」では、ふたたび極楽の様子が語られる一部始終を見ていたお釈迦様は、悲しそうな顔をしたしかし、極楽の蓮は、そんな出来事には頓着せずに、相変わらずいい匂いを放っていた  (3)創作意図  「厭世家」と評判された芥川が児童文学の創作に不向きであると思われた芥川自身もそう思っていたところが、芥川はいろいろ考慮し、散々苦労してから『蜘蛛の糸』という傑作が出来上がったそれは『赤い鳥』創刊号のために鈴木三重吉に依頼されて創作したという原因だけではなく、子供向けの健康な読み物を書くべきであるという文学者としての使命感もあるからであるこの時期の作品は人間悪だけ暴露するということから人間性の善悪が併存するという考え方へ転換していると考えられる。

人間の「悪」を人間の「善」で克服できるという「自我救済」の可能性は読者に伝えたいのであろう次は、『蜘蛛の糸』における善悪併存の人間とそれに対する救済方法について述べてみよう  2.善悪併存の人間  芥川龍之介は常に冷静な傍観者として、理性な目で人間性、人間の残酷な心と醜い社会を見て、現実を鋭い理知で独自な解釈を加えて鮮明的なテーマ小説を書いたのである彼は「人間の本質はなんであろうか」、「人間は何のために生きているのか」などという問題を余程真剣に考えていたその結果、「周囲は醜い、自己も醜いそしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい愛も結局虚妄なものである僕はエゴイズムを離れた愛の存在を疑う僕自身にもエゴイズムのない愛がないとすれば、人の一生ほど苦しいものはない」という人生観を持たせたのである芥川の多くの小説にはこのテーマが貫かれている芥川は既に人間の本性の「悪」を見抜いたということである人間の「善」については、言及しなかったしかし、『蜘蛛の糸』の中でそれを描き出した  「このかんだたという男は、人を殺したり、家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大泥棒でございますが、それでもたった一つ、善いことをいたした覚えがございます。

hellip;そこでかんだたは早速足をあげて、踏み殺そうといたしましたが、「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いないその命を無暗にとるということは、いくらなんでも可哀想だ」と…とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやったからでございます」という場面がある  かんだたはいろいろな悪事をしたが、道端を這っていく「小さな蜘蛛」を助けるだけの善の心を持っているどんな悪人でも生まれつきの「善」というものがあることを裏付けたと言えよう人間は生まれた時、善悪が同量に与えられる成長するにつれて、社会環境とか、受けた教育とか、個人体験などの影響で、善と悪の量的な変化がだんだん現れてくるのである善悪併存という観点から芥川の人間観の明るい一面が窺われるのである  3.自我救済  芥川は人間性の「善」の一面を認めるとともに、「自我救済」という可能性を示した蜘蛛の糸はかんだたにとって、自分が地獄から脱出する手段であり、芥川にとって人間たちが悪から救済の希望である一つの細くて切れそうな蜘蛛の糸は極楽世界と地獄という二つの相対世界を結び、もし、人間は自分の「善」で「悪」を克服できたら、極楽世界への希望があり、できなかったら、地獄へ落ちるしかない。

かんだたは「蜘蛛を助けた」が、彼の悪行に比べてこんなわずかな善良な心は細い蜘蛛の糸で彼を助けて十分であると思うもし、もっと多くの善行を積んだら、お釈迦様が太い縄を地獄へ垂らすかもしれないそして、かんだたは地獄の責め苦に耐えてきたが、お釈迦様からの試練に耐えることができなかったそのかんだたの後について登ってきたのは、ただ彼の幻想であると言われるつまるところ、かんだたは自分の悪行に反省せず、以前と同じように振る舞い、自分の悪に気付かなかったのである人間は自分の身に存在している人間性の「悪」を自覚し、自分の「善」の力に頼って自らを「悪」から救われるのである芥川が読者に伝えたいのはこういうことであろう  終わりに  本稿では、『蜘蛛の糸』について簡単に述べてきて、小説における善悪併存の人間性とそれに対する救い方も明らかにしたと思う芥川の小説は量的に多く、芥川文学の思想を完全に了解するには、他の作品を深く分析することが不可欠である芥川の代表作品を通して彼の思想の変化を考察することを今後の課題としたい  参考文献:  【1】芥川龍之介全集,芥川 龍之介 / 筑摩書房 / 1994  【2】芥川龍之介,関口安義/岩波書店/ 2003  【3】追想 芥川龍之介,芥川文、中野妙子記 / 中公文庫 / 1987  【4】芥川龍之介とその時代,関口 安義 / 筑摩書房 / 1999  【5】芥川龍之介:「不安」の諸相と美学イデオロギー,藤井貴志 / 笠間書院 / 2010  【6】芥川龙之介短篇小说集,芥川龙之介 / 鲁迅、夏丏尊 / 湖北人民 / 2006。

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